応援と仮装と私

ランナーの方もサイクリストの方も、一度「縁もゆかりもない人を全力で応援してみる」ということをすべきだと思う。
第1回東京マラソンに参加した。特に芸能人を追いかけるテレビ中継はなかったし、出場する有名人は事前にほとんど公表されていないかった。事前報道はどちらかというと「石原都知事が無駄遣いしてけしからん、都内大迷惑!」と批判的。大会側から「仮装はほどほどに」という事前注意を受け「迷惑だ!」と石でも投げられるんじゃないかとビクビクしながら参加した。参加してみると、極寒雨天の中でも見ず知らずの人が、ずぶ濡れになりながら私に向かって「おねえさん、がんばって!」と声をかけてくれるのだ。
応援されることは応援する側が思っている何倍も力になるし助けられる。応援してくれる人にそのことを伝えたいと思いながら頭を下げつつ走った。
応援する側に身をおいてみる。自分が応援することであきらめようとしていた人が思い直して再び元気をとりもどしたり、「ありがとう」と返されたりするとうれしい。仮装をする人が通り過ぎるともりあがるし見ている子供は喜ぶ。自分が走っているときは、どうかなと反省する。「ありがとう」ということぐらいはするけど、その一歩先「たのしい」と思ってもらえたらいいなぁ。
自分が生活しているところにレースがやってくるとする。やはりなにかしら不都合をこうむる。ランや自転車を趣味にしている人は別にいい。レースの上位を争うのもひとつだけど、そうでない人は地元の人に「楽しかったね。また来てね」と言ってもらうために、競技をしたことない人が見ていても楽しめる工夫をするのが、競技の場や人口を増やすために大事なことじゃないかなぁと思う。「速さ以外のなにか」とは、そういうことかなと思っています
ランナーとかが仮装する意味は「調子乗ってる」わけではないと、応援する側される側を経験してわかった。「道路ふさいでふざけてる」という人もいるので、そのへんは難しいところ。
遅いながらも自分の記録が大事で仮装ランをしたことがない。最近、体力の自信もついてきたし、ちょっといっとこかなと思ってる今日このごろ。